歴史の中の「日限山」
「日限山」の町名は、日限山一丁目にある日限地蔵尊(高野山八木山福徳院)に因んで名付けられました。
鎌倉時代には、鎌倉から東国に伸びる3本の鎌倉街道のうち、北鎌倉から舞岡公園、
日限山に至り、柏尾、鶴ヶ峰を通って川口市以北の北國に伸びる鎌倉街道中道(なかつみち)にあり、さらに朝比奈切通から弘明寺、松戸に通じる鎌倉街道下道とは日限山から弘明寺への連絡路で繋がっていました。
日限地蔵尊は、江戸時代末期に、病に苦しむ農民が通りかかった旅の僧に、
伊豆三島の蓮馨寺(れんけいじ)の日限地蔵尊を信仰すれば病は治ると教えられ、
これを信じて祈願したところ病が完治したので、この功徳を皆に広めようと蓮馨寺から
地蔵尊の分身を勧請し、福徳院の本尊として奉りました。
山梨と長野に奉られている分身とともに「日本三体地蔵」の一つといわれています。
「横浜の高野山」と言われるほど、人里離れた深山幽谷の地にある日限地蔵尊ですが、
「四」の付く日が命日とされ、この日に願いごとを祈願すれば必ず成就するといわれ、
縁日には横浜の内外からも多くの人が参拝に訪れ賑わいをみせていました。
ニュータウンの誕生
日限山一帯は、横浜の緑豊かな台地にあり、戦後の経済発展で首都圏に集まる人々の住宅地として発展してきました。1969年(昭和44年)に行政区画再編により横浜市南区から分区されて横浜市港南区が誕生しました。1970年代に入ると、横浜の中心街や東京にも便利な通勤圏にあったことから、野庭団地や港南台団地などの新興住宅地が数多く建設されました。
そして京浜急行・京急興行が港南区の発足とともに大規模ニュータウンを建設・分譲を開始し、1980年(昭和55年)には、港南区上永谷町、下永谷町、野庭町、戸塚区舞岡町の一部を纏めて「日限山」が誕生しました。横浜の中心部から上永谷駅まで来ていた横浜市営地下鉄が戸塚駅まで延伸され、1985年に下永谷駅が解説され、交通の便が一気に向上しました。この時には、駅名を「日限山」にしようという運動も起こりましたが、最終的には「下永谷駅」ということになりました。